海外にユートピアはまだ残っているのか?【6月18日は海外移住の日】

6月18日は“海外移住の日”

1908年(明治41年)6月18日、日本人781人を乗せた笠戸丸がブラジルのサントス港に到着。
これは本格的な海外移住の先駆けとなり、これを記念してこの日が海外移住の日となりました。

といったわけで、今日は日本人の海外移住について掘り下げてみたいと思います💡

【希望の国”ブラジル”のはずだった…】

<1893年のリオデジャネイロ>

海外移住が活発化し始めた年(1908年)の日本はどんな状態だったでしょうか?

実はこの時期、日本は不況に見舞われていました。

その原因となったのは1904年〜1905年に起こった日露戦争にあります。というのも、この戦争で日本は勝利したにも関わらず、賠償金が全く取れず戦時中の莫大な戦費を補うことができなかったからです。

一方、日本から遠く離れた国、ブラジルでは1888年に奴隷制度を廃止し、コーヒー農場における人手不足が徐々に深刻化している最中でした。

そこで、この打開策として、ブラジル政府は海外からの移民に目をつけたわけです。

つまり、貧困にあえぐ日本人、とりわけ農村出身者が一獲千金を目指していた点とブラジルのコーヒー農場における人手不足解消という点が合致して大規模移民へと繋がったわけですね。

1908年、期待に胸を膨らませた781人が船へと乗り込みました。

日本からブラジルは、今でこそ飛行機で1日〜2日くらいですが、当時は船で2ヶ月近くかかっていたそうです。行くことだけでも苦労したわけですが、ブラジルに到着してからも彼らの苦労は続きました。

なぜなら生活環境は酷く、重労働、低賃金も当たり前だったからです。
加えて、医療水準も低く、中には病気などで命を落とす人もいたそうです。

↓写真のように立派なコーヒー農場は割と最近になってからです。

<近年のブラジル コーヒー農場>

当時は収穫がまともに行えないこともあったとか。

それでもそういった苦境を乗り越えて徐々に生活を安定させていったそうです。
いつしか日本人学校もでき、ようやく安堵の時を迎えます。

しかしこの安定した時期も長くは続きませんでした。

ブラジル政府による悪政や第二次世界大戦の影響があったんです。
さらに追い討ちをかけたのは日本の敗戦。アメリカによる爆撃で祖国はボロボロになっていました。

つまり、移住者にとっては、残るも地獄、帰るも地獄という状況になってしまったんですね。
結局、移住者のほとんどはそのままブラジルに残る決断をしたそうです。

時は流れ、日本は高度経済成長期に突入します。それは人手を海外に頼るほど目覚ましいものでした。

一方のブラジルは長期の景気低迷期にあり、かつて海を渡った日系人が逆に日本に出稼ぎに来る状況を生み出しました。もちろん日系人と言っても、この頃はもう日系3世が世代の中心となっていました。

多くの日系人が日本で働くようになり、ここでようやく高収入で安定した生活を手にすることができたのです。最初に海を渡り、ブラジルにやって来た日系1世からすれば優に50年は越えていました。

そういったわけで、日系ブラジル人は色んな苦労を乗り越えて今があるのです。
当事者でなくとも先人に敬意を払いたいですね。

☑️ コロナ禍で帰国か残留か選択を迫られた海外移住者

外務省によると、2019年(平成30年)10月1日現在の推計で3ヶ月以上海外に居住している日本人の総数は約139万人とのこと。これは統計を開始した1968年(昭和43年)以降最多の数だそうです。

しかし、ご存知のように2020年は新型コロナウイルスの影響で、多くの国で入国制限が行われる事態となりました。これにより、日本人の海外移住者の数は相当減ったことでしょう。

統計は毎年10月に出ていますから注目したいところです。

一方、新型コロナが流行する前から海外で生活していた日本人は、帰国か残留かを迫られることとなりました。思い返せば、3月〜4月くらいが被害や混乱のピークで、ちょうど私の友人や身内の1人がその影響を受ける形となりました。

結果、私の友人はほとんど残留、身内は帰国を選択しました。

こればかりは個々人の考え方や状況が違いますから正解というのはありませんよね。
一にも二にも身の安全や命が大事です。

幸い、皆大事なく今に至っているのでそれが何よりでした。

ただ、今後も第二波・第三波が懸念されていますし、有効な治療薬やワクチンが開発されるまでは入国制限等もなかなか緩和されないかもしれません。(2020年6月現在)

1日でも早く「海外との往来が当たり前」という日々が戻ってくることを祈るばかりですね。

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